ネオクーロンレポート
ひとりの男の手による、SIM『KOWLOON』への潜入レポートを、
数回に渡って公開。
果たしてネオクーロンは彼に何を見せ、何を語ったのか・・・



第一夜 「到着」


 ここはいったい何処だ……?
フェリーから埠頭に降り立った私は、目の前に広がる光景にしばし茫然とした。
 確かに昼間、マカオから九龍半島行きのフェリーに乗ったはずだった。前日の疲れからうとうととまどろんでいるうち、ふと気がつけば窓の外が真っ暗になっているのに気づき、寝過したかと荷物をつかんで慌てて船を下りた、そこまではいい。だが、そこで目にした光景には、ぬぐい去りがたい違和感があった。
「フェリー埠頭」というよりは「船着場」とでも言いたくなるような小さな、何もない桟橋。そこから右手へと道が伸びており、その先が街への入口となっている。まるで城都の門のようにその入口を飾る電飾には、大きな文字で「九龍電脳城」とあった。
 漢字をあしらった電飾は確かに、いかにも香港らしい雰囲気ではある。だが、記憶の中の香港の夜景が、光の洪水ともいうべき華やかさに満ちているのに対し、ここの電飾は、それ自体が放つ光にもかかわらず、まるで闇の中に沈んでいるように感じられるのだ。
 電飾だけではない。はがれかけた張り紙と落書きの残るコンクリート壁も、錆びついた金網張りの扉も、すべてが闇に包まれている。こんな薄暗い、汚れた雰囲気の場所が、百万ドルの夜景を誇る観光都市、香港であろうはずがない。
 不安に駆られ、私は船へと戻ろうとした。だが、大勢の観光客でにぎわっていたはずのフェリーは、いつの間にか無人になっており、客はおろかクルーの姿さえ見当たらない。船までもが、街を支配する闇に引き寄せられ、取り込まれてしまったかのようだ。
 私は船へ戻るのをあきらめ、街へと向かって歩き出した。


 街へ入っても、最初に感じた異様さが失われることはなかった。街のメインストリートらしい埠頭からの道には、何軒もの店が立ち並んでいる。だがそこにはほとんどと言っていいほど人の気配がない。たまに見かける人影も、ひどく生気に乏しく、話しかけようとすれば胡散臭そうな視線をこちらに向けてくる。その視線に気押され、私は誰にも声をかけられないまま道を進んだ。
 やがて道の右手に、酒場らしい一角が見えてきた。開きっぱなしの入口からなかを覗くと、卓が3つほどの店内には客は誰もおらず、カウンターの中にバーテンらしき男が一人いるだけだった。男はこちらを見て、「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。いかにもマニュアル通りの、心のこもらない挨拶ではあったが、あの排他的な視線を向けられなかっただけでも私はひどく心が安らいだ。
「ビールはあるかな」
「バドリオンでよろしければ」
 聞いたことのない銘柄だったが、街の異様さに圧倒されていた私は、いい加減ひと息いれたくなっていた。じゃあそれで、と答えてカウンターの前のスツールに腰を下ろす。
「ところで、ここは何処なんだい」
 口にしてからしまったと思った。何という間抜けな質問だろう。だがバーテンはビールの瓶とグラスをよこしながら、何か変なことを聞かれたというふうでもなく答えた。
「九龍ですよ」
「九龍の、どの辺かな?尖沙咀?九龍湾のほう?」
「九龍は、九龍ですよ」
 まるで要領を得ない。
「尖沙咀行きのフェリーに乗ったつもりだったんだけど、どうも間違えてしまったらしいんだ。次の船は何時にどこ行きがが出るのかわかるかい?」
「さあ、私はフェリーなんて乗ろうと思ったこともないので、なんとも。クーロネット端末から調べたらわかるんじゃないでしょうかね」
 男はそう言って、私の背後を指差した。つられてそちらを振り向くと、店の壁に小さなモニターが二つ据え付けられていた。片方には「FREE MARKET」、もう一つに「NeoKowloonet JOIN US!」の文字が表示されている。私は席を立ち、「NeoKowloonet」のほうのモニターをクリックしてみた。画面が切り替わり、文字が表示される。

『特典いっぱい!neokowloon net SNSにご参加ください。

参加費:無料
サービス・特典:
・「neokowloon net 街頭端末」が使用いただけます
・アパートを賃借いただけます(有料)
・会員限定のアイテムを受け取れます
・老人中心(セミナー、イベント会場)をご利用いただけます』

 どうやらソーシャルネットワークシステム(SNS)の勧誘らしい。あちこち操作してみたが、それ以外の画面が出てくることはなかった。ということは、このクーロネットとやらに登録しないと、これ以上この端末を使うことはできないらしい。まあ、参加費は無料というから、登録して困ることもないだろう。
「参加」のボタンを押すと、ポーンという電子音と共に画面が切り替わった。
『登録ありがとうございます!24時間以内にこの端末に参加承認のメールをお送りします。メール到着後、クーロネット端末を自由にお使いいただけるようになります』
 やれやれ、どうも簡単には使わせてくれそうにない。私はあきらめてカウンターに戻り、出されたビールをグラスに注いで一気にあおった。
 ビールはすっかりぬるくなっていた。
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